定年退職を迎え(完)

 時代は、激動の90年代から2000年代へ、コンピューターが誤作動すると心配された「2000年問題」から始まった2000年代を振り返ってみます。当時の日本社会は、年間自殺者数が、2009年まで12年連続3万人以上で推移し、主要国G8諸国、OECD加盟国、双方とも日本が自殺率1位、外需主導のいざなみ景気でもデフレは解決せず、アメリカ同時多発テロ事件やリーマンショック後の世界同時不況の発生により再び深刻な不況に陥っていました。労働現場では格差社会が問題化され、ヒルズ族をはじめとする新たな富裕層が台頭する一方、ワーキングプア、ネットカフェ難民など日本国内においても深刻な貧困問題が存在することが知られるようになりました。失業や非正規雇用の増加による若年層の貧困化が深刻になり、過度の人員削減などにより過労死や過労自殺に追い込まれる正社員が増加、ひきこもりやニートも社会問題になっていました。成長産業として、介護・福祉・IT業界が台頭しましたが、これらの業界はいずれも低賃金・重労働で離職率が高く、若者の介護離れ・IT業界離れから人材集めに苦戦していました。派遣労働者などの不安定な非正規雇用に追い込まれた人々が増加し、正社員の給与も減少傾向をたどり、ワーキングプアが社会問題化していました。

 入社して20年が経過していていた私は、職場では中堅、指導する立場になっていました。アルミ工場に異動して、経験を積み諸先輩から暖かい指導を受けて、指導層から監督層へ、次のステップの機会を頂くことができました。本社での座学を経て、約1か月間職場実習改善活動を他工場のいわき工場で行い、最終の自職場改善活動を経てまとめ、発表し終了証書を頂き合格となります。この教育では、工場を代表する方、製造部担当の方、自職場を担当する方と3名のトレーナーにより指導を受けますが、自職場実践の段階で指導を頂きながら方向性を確認し、まとめて行くのですが、それまで順調に進み最終の仕上げの段階にきて大幅修正「やり直し」を告げられました。これまで、共に指導を頂きながら進めてきたものですから、目の前が真っ暗になりました。しかし、納期は迫っていて後がない状況でした。この教育は、そこに本当の目的がありました。ただ単に良くまとまりましたということの解決は望んでいないのです。最後の1週間、必死で取り組み徹夜も辞さない状況でした。そこで協力してくれたのが職場の仲間だったのです。この教育で、指導層から監督者になるためには、自分一人ではどうにもならないということと、協力してくれる仲間がいることを肌で感じることができました。修了書を受け取るときにトレーナーから、「監督者になるということは、いかなる困難にも立ち向かわなければならない、どんな困難にも負けない強い精神力が必要だ」と言われました。この言葉は、今でも忘れません。監督者になる前は、どちらかというと自分さえという考えが先んじていたような気がします。しかし、それでは監督者は務まりません。自分を見つめ直すいい機会となりました。

 監督者になって間もない2005年でした。労働組合の専従になってほしいと上司から言われました。期間は2年間、職場復帰後は次のステップを考えているということでした。つまり、労働組合専従は、登竜門ということです。その時に上司から言われたこと「人の上に立つということは、仕事はできて当たり前、世話活動が重要だ」ということでした。気が付いたら、2年の約束が過ぎてしまい、職場復帰できずにあれから17年が経過し18年目を迎えています。労働組合に出向という形で定年退職を迎えたことは、少し寂しい気持ちもありますが、現場の思いを忘れずに、様々な労働問題は、様々な現場で起きています。その現場の一人一人に寄り添った労働運動をこれからも肝に銘じて取り組んでまいりたいと考えています。

 健康で60歳という節目の定年を迎えることができました。支えてくださった皆様に感謝です。高校を卒業して社会人となり、一言では語り尽くせない経験をさせていただきました。特に印象に残ったところのお話をさせていただきました。「人生楽ありゃ、苦もあるさ」“あゝ人生に涙あり”歌いだしです。振り返ると苦労したことが、とても印象深いものなんだなあと思います。そこには、必ず仲間がいて助けられました。その恩を忘れずに人生100年時代!これからも、真っすぐに歩いていきたいと思います。後ろを振り返ったら誰もいなかったということがないように!そして、何より先ず健康第一です。朝のウォーキングは、身に染みて寒くなりましたが、続けてまいります。この冬は、コロナ感染症とインフルエンザのダブル流行も懸念されています。お体ご自愛ください。

定年退職を迎えて編は、いったん終わりますが、これからも引き続き世相についてブログを続けてまいりますのでよろしくお願いします。