日光の白根山が、うっすらと雪をかぶり季節の移ろいを感じさせています。一雨ごとに寒さが増していく季節です。お身体ご自愛ください。
さて、販売店出向から出身職場である鋳造工場の鋳鉄部門に職場復帰したのは、1991年の春でした。当時は、バブル経済の終焉を迎えた時期で、日本に冷たい北風が吹き始めていました。職場でも作れば売れる時代から大きく変わり、見込み生産から受注生産に、多種少量生産へと変容していきました。と同時に、「鉄は国家なり」と国力を表すことを例えた格言に従うように、高度成長下で社会インフラの整備は加速し、造船や自動車、電機などの製造業も日本経済のけん引役となって来ましたが、85年のプラザ合意を転機に、鉄鋼業は長い冬の時代に入り、石油価格の急騰と急速な円高進行は日本経済の競争力をそぎ、鉄鋼需要も減少。90年代にはバブル崩壊と金融危機が追い打ちをかけ、製鉄所の象徴である高炉は閉鎖が相次ぎ、84年の65基から90年には45基に。90年代後半には製鉄会社の経営問題も表面化しました。同時期に日産は、2兆円の有利子負債を抱え、いつ倒産してもおかしくない経営危機を迎えていました。当時の職場の状況は今でも忘れられません。生産量が徐々に減っていき、他工場応援も頻繁に行われました。上司や先輩から、「先がないから早めに次の仕事探したほうがいいぞ」と慰められていました。とにかく職場の雰囲気が暗く、日々つらい時期でした。まさかこうなるとは思いもしませんでしたので、当時私は、二人目の子供が生まれ、新築を構えたばかりでしたので、この先どうなるのか不安で仕方ない状況でした。
会社は、この危機の打開策として、フランスの自動車メーカー、ルノーと資本提携を結び、当時ルノーの副社長であったゴーン氏が最高執行責任者(COO)に就任しました。直後、「日産リバイバルプラン(NRP)」を発表します。NRPなんて聞こえはよく、今でこそV字回復の立役者、みたいなことを言われていますが、当時の現場で働く私たちにとってこんなつらい出来事は他にありませんでした。車両工場2工場の閉鎖とともに多くの仲間が栃木工場に異動し、同時に多くの仲間も退職しました。その時思ったことは、労働組合は雇用を守ると言いながら、何も守れないじゃないかと憤ったこと思い出します。後に退職した先輩から話を聞くと、労使による面談があって退職の優遇制度を使い、次の仕事も探していただいたということでした。
当時、日産自動車で働く仲間、販売・部品・関連企業含めると、日産労連組合員だけで当時は、25万人在籍していましたので、その仲間と家族が路頭に迷うこと、このことだけは避けなければならない。ということを知ったとき、改めて雇用を守るということの意味を深く胸に刻んだ大きな出来事でした。今現在でも、もしかしたらコロナ感染症によって、企業の集約や経営不振によって、退職に追い込まれている多くの仲間がいます。労働組合のない企業で働き、経営が苦しくなったから退職に追い込まれた。という労働相談を受け付けます。雇用主、人事担当から一方的に解雇通知を受けたということです。この手の多くの相談は、相談者に確認すると、概ね労働組合がありません。大変残念に思います。退職に追い込まれる前に相談してくれたらと思うと同時に、組合があれば企業がそのような状況にならなかったのではないか、考えさせられます。
仕事の話に戻りますが、車の趣向は、低燃費で環境にやさしい車が台頭してきました。エンジンも鉄からアルミへと、軽量化が進んでいきました。当然、私の職場は鉄部署でしたのでこのあおりを受けて、アルミ工場へと変わっていくことになるのですが、私は、いち早くアルミに備えるということで、アルミ工場へ異動することになりました。鉄からアルミということで、当然、鋳込み温度(型に流し込む温度)は、鉄が1450℃、アルミが650℃と大きな違いはありますが、私の仕事は幸いなことにどちらも空洞部位を司る中子という砂型を、作るものでしたので、違和感はありませんでした。大きな違いは、鋳鉄ではロボットはありましたが、塗型用と納品用と数少ないものでしたが、アルミ工場では製品のバリ取りから、製品の搬出、そして鋳込み工程までAGV(自動運搬車)で運搬と、オートメーション化されていたことにカルチャーショックを受けたものです。しかし、それらも管理するのは人でしかありません。いくら産業が発展し、オートメーション化されようとも人による管理を怠れば、それは全く役に立たないということを学び、労働組合に通じるところです。
今回は、「激動」のと言ったら大袈裟かもしれませんが、1990年代について記させていただきました。この内容、特に「NRP」については、私の職場で起きたこと、私見が多く含まれています。ご了承いただきますようお願いします。次回は、最終として2000年代、組合専従に至るまでを書きたいと思います。