定年退職を迎え(3)


 企業人として7年目を迎えようとしていた時に、大きな転機が訪れました。今回は、そのことについて触れたいと思います。日産では、3年間の販売店出向制度があり、この制度は、自己研鑽、教育プログラムの一環、販売店支援というものでした。上司から販売店に出向してみないかという話があり、車の営業は考えたこともないし、売れる自信もありませんでしたので、頑なに断っていたのですが、一方で、一生このまま工場で働くことから解放される、いつかは行かなければならないということも上司から聞かされていましたので、今なら子どもが3歳でしたので、小学校入学前に終わることを考えて、二つ返事とは言いませんが、販売店出向を決断しました。一旦職場を離れるので、もう戻らないと覚悟を決めていたのも事実です。3月末の一週間、販売店に行く前の研修が始まりました。身だしなみから挨拶の仕方、名刺の渡し方などから始まり、販売店に行って初めに行うこととして、既納先リストに沿ってあいさつ回りをしなさい。また、テリトリーと言って営業所には、営業マン一人一人に地域が割り当てられているので、その地域を隈なく回りなさい。新規開拓は営業にとってとても重要ですから、毎日何件と自分で決めて、回ることも大切ですと教育を受けました。今では不法侵入など訴えられかねませんので、訪問販売ではなく店頭販売が基本となっています。

 そして、いよいよ4月1日から営業所に配属です。私の配属先は、新1万円札の顔、近代日本経済の貢献者として有名な「渋沢栄一」氏の生まれ故郷、埼玉県深谷市に決まりました。深谷市のもう一つの有名なものに、深谷ネギがありました。住まいは、新築の2LDK一軒家のアパート、辺り一面ネギ畑の真ん中になりました。

埼玉日産深谷営業所に出勤して驚いたことがあります。工場での販売店研修で教えていただいたこと、挨拶や名刺交換などは、何ら変わりはありませんでしたが、テリトリーや既納先データなど何もなく、この先どうしていくべきか3年間勤められるのか不安でいっぱいになりました。営業所の所長は、車を売りまくって所長の地位にある方でしたので、朝のミーティング、夕礼もなく、とにかく車が売れていれば、何をしててもいいし、営業所に出勤しなくてもいいという破天荒な考えの方でした。

そこで決めたことは、自分の住んでいる周辺を毎日300軒訪問しようと決めました。日中は、殆どの家は留守でしたが、時々在宅していた時などは、いろいろな話をして回りました。その時に、必ず言われたことは「東北出身?」でした。自分ではそんなに訛っているという自覚はなかったのですが、言われて初めて自覚をしました。それが功を奏したか、吉成という名前も「吉(きち)に成りますよ」と、名刺を渡しましたので印象深かったか、徐々にお客さんが来店してくれるようになりました。その時気付いたのですが、車を買う人は、決まって車検か故障した時に買い替えを考えるようで、壊れる時は判りませんが、車検時期は当時、フロントガラスのステッカーで年月がわかりましたので、住宅地図にマーカーで色分けし月数を入れ、車検の3か月前になると集中的に訪問するようにしました。てき面に効果が現れ、徐々に台数も伸びるようになりました。それと出向に出た当時、日産はBe-1、シーマとヒット車を発表し、シーマ現象と言われるくらい人気を博していましたので売りやすい時でもありました。そうこうしているうちに3年が経過しました。先にも述べたように、日産栃木工場には戻らないつもりでしたので、営業所に残るかも考えましたし、実は3社ほど面接にも行きました。ところが、面接の結果も待たずに出身職場から上司と同僚が、営業所に来てくれて「職場で皆が待っているよ」と話を聞き、復職を決意しました。あの時、職場の声が無かったらどういう人生を送っていたか、想像もつきません。人生の分岐点だったと感じています。そして、もう一つ営業で思い知らされたことは、いくらいい車でも人と人との信頼関係がなければ車は売れないということに、気づかされました。今、コロナ禍で人間関係が希薄になっています。労働組合の基本は、世話活動と言われていますが、各構成組織の皆様には、コロナ禍の状況には注視しながら、出来る限り面着を基本とした運動を展開していただきたいと考えています。私の信条“顔合わせ、心合わせ、力合わせ”このことを胸にこれからも労働運動をけん引してまいりたいと考えています。