定年退職を迎え(1)


 8月31日、日産自動車(株)栃木工場を定年退職しました。41年間、健康で無事に勤められたこと、支えていただいた家族や職場のなかま、労働組合を通じて関係いただいた多くの皆様に、心から感謝を申し上げます。ありがとうございました。

 今日は、入社当時のことに触れてみたいと思います。高校卒業を控え、勉強は嫌いな方で、成績も良い方ではなかったので、進学など考えたこともなく、どこに就職するか迷っていたころ、義理の兄が日産自動車栃木工場で働いていたことや、高校は、オートバイで通学していましたので、自分でオイルやプラグ交換、パンク修理もしていましたので、メカに興味を持っていたこと、また、日産からの募集が学校に来ていましたので、試験を受けて入社することになりました。特に日産自動車が大企業だから、将来有望な企業だからというものではなくて、今、述べたようにただ漠然としていました。

1981年入社当時は、自動車の世界生産台数、日本が世界1位になった年で、同期入社は600名を超えていました。事前の受け入れ研修の時、工場の中をバスで移動し見学をしました。驚いたことは、当時、東洋一の周囲6㎞にも及ぶテストコースの中に、8,500人の従業員が働き、食堂や診療所、売店もあり、一つの街を巡っているようでした。どこの職場に就きたいか、希望する工程を第3希望まで意見を問われましたので、今でも忘れません、第1希望は、自動車会社に入った方なら誰でも憧れる組み立て工程、第2希望は、車の足回りの部品を加工する車軸工程、第3希望は、どちらかというと行きたくない鋳造工程と書いて出しました。結果は、まさかの鋳造工程での仕事に就くことになりました。恐らく誰も第1希望で鋳造と書いた人はいなかったと思います。

いよいよ、職場実習が始まりました。鋳造の各工程の説明を受けて、実際に作業に就くと研修の時の様なわけには行かず、そうこうしているうちに昼夜2交代勤務が始まりました。当時は、覚えなくてはならないことも多く、夢中で仕事をしていました。入社して一年間は、仕事の困りごとなど相談できるようにと、職場の先輩がフレッシュマンリーダーとして面倒を見ていただきました。その先輩がとても優しく丁寧に教えていただいたこと、今でも覚えています。良く聞く言葉に、三日、三月、三年、という言葉があります。仕事に就いて、または、何かを始めたときに立ち止まって考える時を表わしていて、仕事であれば辞めようかと考える時でもあります。お陰様で、先輩や、職場のなかまに恵まれ、昼休みには短い時間でしたが、工場の広場でソフトボールやサッカー、構内ではバトミントンなどに興じて職場生活を謳歌していました。GWや夏休み前、正月休み前には決まって賄い料理を工程ごとに作って、職場の融和を図っていました。また、日産労組青年部が主催する新入社員歓迎ソフトボール大会や、成人祝賀ボウリング大会、昼休みには、カラオケ大会なども行いました。今思えば、仕事は厳しかったけど鋳造の人達の温かみを感じ、鋳造に配属になってよかったなと思っています。

当時は、今のように携帯電話など普及していませんでしたので、昼休みは、囲碁や将棋、トランプなどして過ごしていました。人と人は常に接していましたので、何か職場で問題が発生した時や、緊急の業務遂行などの時は、みんなで力を合わせて取り組んだ事、今でも忘れません。当時は、今のように何でもある時代ではなかったので、何をやるにも集まっていました。あの時代にコロナ感染症が蔓延でもしたらどうなっていたか想像もつきません。

 今日は、41年前高校を卒業して、なぜ日産自動車に入社したのか、そして、入社した当時のことについて記させていただきました。書き尽くせませんので、何回かに分けて、述べられたらなと思います。次回は、日産労組青年部(現フリーウェーブ)時代のころを書きたいと思います。