東日本大震災から11年


2011年3月11日、14時46分。地鳴りと共に大きな揺れ、建物のきしむ音と共に、天井の隙間から前が見えないくらいの埃が落ちてくる中で、身の危険を感じました。当時は出身労連の仕事をしていましたので、福祉センター別館の事務所から駐車場に避難をしてやり過ごしました。あの時のことは昨日のことのように鮮明に覚えています。その後、余震が続き、東北地方の太平洋沿岸には津波警報が発令され、津波が襲い家ごと流される映像をテレビで観て、まるで映画のようで信じられない状況を目の当たりにして、被害の大きさを実感じました。更に、福島第一発電所の津波による電源喪失原発事故が発生しました。11年経過しましたが、全国の死者数1万5,900人、行方不明2,523人、災害関連死者数は3,784人、改めて被災された皆様にお悔みとお見舞いを申し上げます。

被災当時を振り返り、現在の状況と照らし合わせると、避難所の運営が大きな課題となっています。栃木県に於いては、当時5市3町に避難勧告が発令されましたが、大きな混乱は無かったようです。宮城県名取市の避難所では、「次から次に人が来て定員を気にしていられなかった」「電気や水道のライフラインが途絶え、津波で泥にまみれた人をそのまま受け入れ、乾いた泥と埃が混じって粉塵が舞い、寒さのため換気もできない悪循環に陥った」「冷たい床で寝返りも打てないほどぎゅうぎゅうだった」など、当時は今のように感染症がまん延していませんでしたので止むを得ないかもしれません。今後自然災害が発生したと想定した時に、定員の半数の収容でしか対応できません。ということが理解されるのか。また、避難所を増やせばいい、という意見もありますが、職員やスタッフもその分増やさなければなりません。場所さえ、小中学校の統廃合などで、減少していますので厳しい状況です。身体の不自由な方や妊娠している方、生後間もないなど、優先される方が安心して過ごせるホテルを確保するなど考慮することも必要ではないでしょうか。

また、震災以降今なお3万8千人が避難生活を続けていますが、政府は、避難生活者に対して、帰還困難区域の一部に先行して住めるようにする特定復興再生拠点区域を設け、この春に大熊町と葛尾村が居住を始めます。また6月には、原発被災地で唯一、まだ全住民が避難生活をしている双葉町が居住を開始し、復興のスタートラインに立ちます。住めないと思われた帰還困難区域に住民が戻れるようになるのは大変喜ばしいことです。この間、復興に向けてご尽力いただいた私たちの仲間の皆様や、関係部署の皆様に心から御礼申し上げます。更に廃炉作業は、原子炉や格納容器の燃料デブリの年内取り出しが始まるということですが、関係部署の皆様におきましては、安全が確保され、地域の皆様に対しましては、引き続き理解活動や、廃炉作業の「見える化」など情報の提供をお願いします。

日本では、地震・津波という自然災害によって、原発事故が発生しました。このような事故は二度と起こしてはならないという教訓を学びました。いま、ロシアによるウクライナ侵攻によって、チェルノブイリ原発で停電が発生し、放射性物質拡散の恐れが出てきています。更に、ロシアはウクライナの核開発疑惑という根拠のない主張を展開し、原子力発電所や核関連施設を立て続けに攻撃しています。国際社会は厳しく批判していますが、ロシアはさらに別の原発を攻撃するとの見方も出ています。

連合はロシアのウクライナ軍事侵攻を厳しく非難するとともに、即時の作戦中止・撤退と核兵器反対・恒久平和を強く求めます!