東日本大震災から10年

 2011年3月11日、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震が発生し、東北の沿岸部を大津波が襲った。2万人近い人々が犠牲になり、生活基盤を破壊され、多くの人々が長い避難生活を余儀なくされた。10年前の3.11、誰もが鮮明に記憶が残る印象的で衝撃的な出来事でした。亡くなられた皆様にお悔みを申し上げ、被災され今なお避難されている皆様にお見舞い申し上げます。

当時私は、自動車総連栃木県の議長として、栃木県労働者福祉センター別館に勤務していました。突然の大きな揺れで、天井の隙間から埃が大量に落ち、別館そのものが潰れてしまうのではないかと思うくらい身の危険を感じ、駐車場に避難しました。その後、県内の自動車総連、関連組合組織に安否確認や本部への報告などを済ませ、夕方5時くらいになったと思いますが、帰路につきました。宇都宮市内を抜けて、所々停電などはありましたが、特に大きな被害は感じられませんでした。ところが、鬼怒川を渡ると景色が一変しました。屋根瓦は至る所で落下し、大谷石造りの塀は軒並み倒れ、瓦礫が道路に散らばっていてそれらを避けながら運転しました。鬼怒川を境に、東側にあたる芳賀台地は相当大きな揺れだったようで、芳賀町の事業所で私たち自動車総連の仲間が地震で亡くなりました。家に着いたのは、夜7時くらいになったと思います。家族が、家に入れず車の中で暖を取っていました。私の住まいがある市貝町も大きな揺れで、当時近くにあった畜産試験場の震度計が7弱と聞いて驚きましたが、家の中を確認すると食器棚は倒れ、食器が散乱し殆ど破損、2階の寝室の洋服ダンスは、私のベッド上に倒壊しており、寝ていたら大怪我するところでした。外壁や内壁など破損はありましたが、家族の無事を確認出来て胸をなでおろしたことを覚えています。それから2~3日停電があり、水が止まりました。普段何気なく蛇口をひねれば水が出て、スイッチ一つで明かりが、そして暖房が付くことが当たり前の生活でしたので、復旧した時は、ありがたさが身に染みました。10年前の教訓として、お風呂の水は、いざというときはトイレに使えるので溜めておく。車の燃料は、早め早めに補給する。防災用品の賞味期限を確認するなど、自分でできることを実践しています。同様の地震が、明日起きるともわかりません。職場や家庭で防災・減災意識を高め、備えをしていきましょう。

 連合は、10年前の発災後ただちに災害救援対策本部を立ち上げ、政策要請や救援カンパに取り組み、3月31日には「連合救援ボランティア」の第一陣を現地に派遣しました。国内外からの様々な人たちによる、支え合い助け合い、共助という輪の中で“絆”が生まれました。今、コロナ禍の中で「密を避ける」「分断」「孤独」など、どちらかというと違った方向に向かってしまっている様な風潮ですが、あれから10年が経過し、大切な家族や友人、住み慣れた家や街並みを失った悲しみは消えることはありません。「いくら物的な復元や、新たな施設が造られても、いつまでどこまでやれば復興が終わるのか先が見えない、心の復興も必要で他人から復興について言われたくない」と現地で災害に遭われた方が、語っていたことが忘れられません。終わりは見えないかもしれませんが、心のケアも含め、今もなお苦しんでいる被災者に寄り添った復興の取り組みを、あの日あの時を忘れずに一緒に進めていかなければならないと感じています。

“私たちは、3.11を忘れない!持続可能な社会を実現するために”